2021年


ーーーー5/4−−−− マイナンバーカードの不快な手続き


 
マイナンバーカードの申請が、スマホを使ってラクに出来たという話は、この3月の記事に書いた。予想よりだいぶ経ってから、交付手続きの書類が届いた。それを持参して市役所へ出向き、交付を受けた。前回の申請手続きはスマホで簡単にできて、評価できる部分があったが、今回の手続きはどうもいただけなかった。

 窓口の職員の対応が、杓子定規でちょっと不快だったが、それはまあ大目に見るとしよう。問題はタッチパネルの操作である。タッチパネルがこちら側を向いて設置されていて、申請者本人が操作をするようになっていた。個人情報を保護するという意味でそうなっているのだろうが、画面を見ながら職員が説明をするわけではないので、とても分かりにくい。パスワードとか暗証番号とかを入力するのだが、それらの語句がまぎらわしくて、咄嗟に対応できない。しかも画面の字が小さくて判読しづらい。いきなりそんな画面を見せられて、無愛想な職員の監視のもとに操作をするのは、いささか苦痛だった。無事に入力を終えて、カードを受け取ったが、嫌な時間を過ごした印象だった。普段パソコンなどのIT装置を使っていない高齢者などにとっては、迷惑なシステムであろこと間違いない。

 受け取ったカードでポイントを得るためには、クレジットカード等に「ひも付け」をしなければならない。カミさんがパソコンで試みた。こういうことは、ネット通販に慣れているカミさんの方が得意である。ところがいろいろ面倒な手操作をしなければならず、途中でギブアップした。たまたま郵便局に行ったら、「ひも付け」ための端末が設けられていることを知った。後日出向いて、その端末でやってみることにした。ところがこちらも、タッチパネルの操作が分かり難かった。要するに、使う立場に立っておらず、まことに気が利かないのである。画面内のキーパッドですら、おかしなモードで表示されていて、即座には使い方が分からない。10分以上かけてようやく操作を終えたときは、どっと疲れていた。

 ネット通販など民間のサイトでは、情報をインプットする画面が使い易く作られているものが多い。使い難いようなシステムであれば、顧客がそっぽを向いてしまい、会社の業績を落としてしまう。だから真剣に検討をして、誰でも分かり易く、使い易いものにしているのだろう。そのような事は、言わば客商売の基本である。それに比べて、お役所仕事はこの有様である。ユーザーを意識しない無神経ぶりは、目に余る。社会のIT化を推進するなどと政府は言っているが、その前にお役人の体質を変える必要があると感じたのであった。




ーーー5/11−−− 作るために食べる


 
蕎麦打ち道具セットを購入して5ヶ月ほどになる。当初はお荷物を背負い込んだような気がして、ちゃんと使い切れるかどうか不安を感じた。納戸に仕舞われたまま、滅多に使われることも無くなるのではないかと想像したのである。

 それが、思わぬ展開となった。日々の生活の中で、蕎麦打ちが完全に定着した。そして私の新たな趣味として、のし上がった。奥が深い世界である。「男の究極の楽しみ」という表現を何かで見たが、それも頷ける。全国に多数の蕎麦打ちマニアがいて、日夜研鑽を重ねているのも理解できる。

 私の場合、木工家であるから、木製の蕎麦打ち道具を自分で作ったり、修理をしたりできる。蕎麦打ち包丁の研ぎも自分でやるが、これは刃物の扱いに慣れた者にしかできないことだ。そういう意味では、私にうってつけの趣味と言えるかも知れない。そう言えば、以前同業者で蕎麦打ちを趣味にしている人がいたけれど、今はどうしているだろうか。

 3月上旬からだから、かれこれ二か月になるが、毎日の昼食に蕎麦を食べている。冷凍保存している蕎麦を茹でて食べるのだが、打ち立てとさほど変わらないくらい、美味しく食べることが出来る。冷凍蕎麦の食べ方を確立したので、子供たちの家庭にも送った。みんなとても喜んでくれた。

 なぜ毎日蕎麦を食べているのか。理由は、作った蕎麦を消費するためである。技量を向上させるために、頻繁に蕎麦を打つ。毎日でもやりたいぐらいだが、そういうわけにも行かないから、週に2回程度のペースで打つ。一回に作る量は5人分くらいである。それをカミさんと二人で食べると、二日分になる。だから当初は週に4日のペースで昼食に登場した。

 ところがそのうちにカミさんの消費量が落ちてきた。残り物があるからとか、違うものも食べたいなどと言って、蕎麦に手を出さない日が生じるようになった。そのため少なくとも私は、毎日食べることになった。そうしないと生産と消費のバランスが崩れ、どんどん余ってしまうからだ。それなら作るペースを落とせば良いではないかと言われそうだが、必要に迫られやっている事ではなく、趣味でやっている事だから、安易な妥協はしたくない。かくして、食べるために作るのではなく、作るために食べるという状況に陥ったのである。

 毎日食べて飽きないかと聞かれるが、そうでもない。話は横道にずれるが、私の父方の祖父は、東京の下町で商店を経営していた。その祖父は、毎日の昼食が必ず鉄火巻きと決まっていたそうである。毎日決まった時刻に、家族あるいは使用人が、寿司屋へ買いに行く。たまたまその戻りが遅くなり、鉄火巻きが食卓に上がるのが少しでも遅れると、祖父はへそを曲げて手を付けなかったとか。チャッチャと物事が進まないと気が済まない、江戸っ子気質の人だったのである。ともあれ、毎日決まった物を食べる習慣が身につくと、それ以外の物は逆に受け付けなくなるのというのも、ありえない事ではない。

 さて話を戻して、現代の私。午前中の仕事が終わったら、母屋に引き上げて台所に入り、湯を沸かす。蕎麦を茹で、冷水で締め、ザルに盛って食卓へ運ぶ。カミさんが作って保存してあるツユを茶碗に注ぐ。他に、小皿に一つか二つ、残り物を使ったおかずが付く。これにお銚子の一本でもあれば、まるで落語家の昼食である(笑)




ーーー5/18−−− 競争がもたらす衰退


 
この4月末にコシアブラを採った。例年より時期が早く、そのせいか小ぶりなものが多いように見受けられたが、それでも数日間に渡って、そこそこの量が採れた。

 採りに入るエリアは二ヶ所ある。一方は伐採跡地のような場所で、見通しが良い。コシアブラだけは意図的に残してあるようで、数十本が遠目にも確認できる。もう一方は自然の林で、藪をかき分けて歩くような場所。山ウルシなども大量に繁っているので、人によってはかぶれたりするかも知れない。

 前者は、かなり人が入っている様子であるが、後者はおそらく私以外は誰も入っていないと思われる。つまり前者のエリアには競争が有り、後者には無いということになる。この、競争が有るか無いかで、状況は大きく変わってくる。

 コシアブラの芽が食べ頃で採集できるのは、一週間くらいである。どのように利用するかによって、採り時期を変えたりする。天麩羅に使うなら開き気味の方が良いとカミさんは言う。炊き込みご飯やパスタに使うなら、つぼみの方が使い易いし香りも強い。木によって芽の出かたに差があり、早めに出る木もあれば、遅く開くものもある。林に入って木を見付けても、これはまだ早いとか、これはちょっと過ぎていると言うように、バラつきが生ずることもある。

 最適な状態から少々ずれていて、摘み取るのがためらわれる場合は、そのまま残すことにしている。残した木の芽が、後日確実に回収できるとは限らない。林の中でその木に出会う可能性は、必ずしも高くは無いからである。また、採り頃の木であっても、全ての芽を摘み取らずに、いくつか残すこともある。ともあれ、芽が残った木は成長を続けることになる。そして人の手が届かない高さになれば、安定した成木となり、子孫を残すことになる。

 上記は、競争が無い林のことである。競争が有る林では、こうは行かない。この春も、二日置きくらいで通ったが、日が経つにつれて無残な状態になった。当初は芽を残した木が散らばっていたが、最後に訪れた日はすべての木が丸坊主になっていた。入った人たちが採り切ってしまったのである。もちろん誰かは分からない。お互いに見知らぬ競争相手である。

 競争が無ければ、採らずに残すということが出来る。そうすれば、木の成長を保存し、その結果永続的に収穫が得られる。競争が有れば、採らずに残してもどうせ誰かに採られてしまうから、自分が全部採ろうとする。かくして木は丸坊主になり、成長が阻害されて、枯れてしまうことになる。かの林も、そのうちコシアブラが見られなくなってしまうかも知れない。

 競争が有れば、不安にさいなまれて欲に傾く。その結果、自然を荒し、恵みを絶えさせることになる。マツタケも同じである。留め山として管理が徹底され、部外者を排除できれば、傘が開いたマツタケを残して、胞子を拡散させ、新たなシロを形成させる事もできる。反対に、不特定の人が出入りする状況では、その場限りの自己中心的なやり方が横行する。小指くらいの小さなマツタケのつぼみでも、取り去ってしまう。残しておけば、そこにシロがあることがバレてしまうからだ。

 競争が有ることは仕方ないとしても、生態系を保全するという意味で、採集者に一定の節度は必要だと思う。しかし、競争にけしかけられた欲に勝てる理性があるかどうかは、私自身としても偉そうなことは言えない気がする。

 広大な森林を相手にするなら、人間の行為など大した影響を与え無いかも知れない。しかし能率効率を優先する現代社会では、近場の限られた自然の範囲での採り合いになる。そういう事が繰り返されると、里山の恵みはどんどん衰退して行くのではあるまいか。





ーーー5/25−−− 勘でやる作業


 
朝、魔法瓶から急須に湯を注いでお茶を入れる。急須から湯飲み茶碗に移すときに、ちょうどピッタリの量だと、気分が良い。 最近ではだいぶ慣れてきて、ほとんどの場合、急須から最後の一滴を落とした時に、茶碗の縁から5ミリほど下でお茶が納まっている。「どうだ、今回もピッタリだ」とカミさんに見せると、「あら、すごいわね」と返すが、本当に感銘を受けているかどうかは、分からない。ともあれ、この作業の出来具合が、その日の運勢を占っているような気さえする。

 この作業は、純粋に勘が左右するものである。ポイントは、魔法瓶から急須に注ぐ際に、適正な量になっているかだが、湯の量を計量カップで計っているいるわけではない。急須に注いだ湯は、茶こし網の下に隠れるから、目で見て量を確認することもできない。注いでいる時間を数えているわけでもない。もっとも数えてもあまり意味は無い。注ぐ勢いは、魔法瓶の傾け方でが違ってくるし、瓶の中の湯の量によっても左右されるからだ。

 というわけで、毎回「こんなところだろう」という感覚だけに頼って進められる。湯を注ぐ後半になると、迷いや不安が起こる。いつ魔法瓶の傾きを戻して湯を切るか、そのタイミングは長いようにも感じ、短いようにも感じるのである。ささいな事ではあるが、ここに決断の迷いがある。結果は、茶碗に注いでみなければ分からない。たまに、大巾に余ることがある。逆に、不本意に少ない場合もある。だから、ピッタリと決まった時は、嬉しいのである。

 人が行う行為には、勘がつきものである。業務的な作業はもとより、スポーツや楽器演奏などもそうである。動作の状態を数値で把握して、適正であるか否かを理論的に判断し、それに基づいて修正をするなどということは、現実的でない場合の方が多い。それに、理論や理屈は分かっていても、その通りに体が動くわけでもない。言葉では表現できない、不可思議なものに導かれ、迷いや不安を感じつつも、繰り返し練習を重ねるうちに、いつしか出来なかった事が出来るようになるのである。そして、出来るようになっても、何故そうなったかは、これまた分からない。名人芸を持つ職人に、何故そんなことが出来るのかと訊ねても、明快な説明ができる人は稀である。結局は「勘ですね」ということになる。

 工房の木工仕事も、基本的に手作業なので、勘が求められる。しかし、仕事としてやっているので、勘にばかり頼っている製作手段では問題がある。なるべくミスを減らし、加工精度を上げ、短時間で行えるようなことを考える。寸法や角度を数値で押さえることをしたり、都合が良い道具や治具(加工補助具)を考案して作ったりする。そういう工夫が、競争の中で生き残りを決めるポイントだとも思う。

 しかし、誤解を恐れずに言うならば、勘に頼ってやる作業、自分の感覚だけを拠り所に行う作業の方が、やりがいがあって面白い。迷いや不安を感じつつ、それを乗り越えながら成功に近づくプロセスは、妙に気持ちをそそられるのである。